数年前から自宅の車庫にツバメの巣がある。1つの巣を使い回してくれればいいのだが、どういうわけか徐々に増えて現在は3つになった。そこへツバメ家族が入れ替わり立ち替わりし、巣立ちまで子育てをしている。
巣ができた最初の数年は正直、勘弁してほしいなと感じていた。巣の下のコンクリート床はまだしも、洗車したばかりの車が巣を作った時の土と糞まみれになっていたこともある。(巣を取っ払ってやろうか)と思ったのは1度や2度ではない。
しかし“つがい”のツバメが車庫で暮らしはじめ、いつしか数羽の小さな子ツバメが姿を表し、親ツバメがせっせと餌を運ぶ様子や、大きくなった子ツバメが、嬉々とした声を奏でながら巣立っていく様を見るのはなんとも微笑ましい。そんなわけで蜘手家では春から夏にかけて帰宅するとツバメの様子を下から伺うのが日課となっていた。
先日、出張先でカミさんから連絡が入った。5羽いた子ツバメのうち、1羽が巣から落ちてコンクリートの上にいる!どうしようか、という内容だった。今までも子ツバメが落ちていたことはあった。しかしそのいずれもすでに死んでいる状態だったのだが、今回はまだ生きているという。
本来、ツバメは野鳥なので餌を与えることも、触ることも禁じられているらしい。
しかし昨日までピーチク、パーチク鳴いていた子ツバメが近所のネコや蛇(実際に巣を狙って下にいたことがあった!)の餌食になるのも忍びない。というわけで、元の巣ではなく(高くて届かない)、また別の場所に箱を置いて、カミさんが軍手をはめて巣に戻したのだが、どうも他の子ツバメと比べても少し大きさも小さく、育ちが遅いように見えたとのことだった。
(他の子ツバメに比べて小さいってことは、他の4羽に押し出されたかな。見捨てられたのか)
その数日後、その小さい子ツバメが下に落ちているのを今後は私が見つけた。
(うーん、これは戻しても同じことかな)と思ったが、私は子ツバメを箱に戻すことにした。
私の時は少し大きくなっており、もう少しで飛び立ちそうなくらい元気だった。
いい大人と逃げ回る子ツバメ。はたからみるとなんとも滑稽な画である。たかがツバメ。野鳥のくせに手がかかるもんだ、と思いながら、なんとか捕まえて、箱に戻した。(親はちゃんとあの小さいツバメに餌をやってんのかな。ちゃんと巣立つことができればいいけど)と思っていた。
そんなある日の午前、私は自宅の2階で仕事をしていた。すると車庫の方で、ツバメの声が騒がしいなと思い、窓の外を見たら、でツバメたちが飛び回っているのが見えた。巣立ちであった。
(そういえば、あの小さいツバメ、どうだったかな。ちゃんと巣立てかな)
私は車庫へ行って巣を下から見た。だが下からは姿が見えなかった。私は脚立を設置し、上り、確認をした。
箱の中で小さいままのツバメが死んでいた。
見捨てられたのか、それともうまく餌を食べることができなかったのかはわからない。なんだか胸が痛く、苦しい思いがした。たかがツバメ。どこにでもいるツバメなのに心が痛かった。
そんな時、ふと石川逸子の「風」という詩が目にとまった。以下、一部を抜粋。
“遠くのできごとに、人はやさしい。近くのできごとに人はだまりこむ。遠くのできごとに、人はうつくしく怒る。近くのできごとに人は新聞紙と同じ声をあげる”
テレビや映画で、ライオンが獲物を襲って食べる様や、アシカがシャチに捕らえられる様子などを見ることがある。私たちはそれを「自然の摂理」や「弱肉強食」などと、頭で理解をするが、心に何か残るかといえばそうでもない。それより私にとって、目の前で小さく死んでいるツバメがなんとも愛しかった。
世界ではあちこちで戦争や紛争が起こっている。遠くにある正義や真実も重要だが、心が動くのは身近な小さな現実だと思った出来事だった。
ふと、そういえば社員に遠くにある理想ばかりを押し付けていやしないか、と振り返った次第。
KUMODE