2021年2月 落語「松山鏡」と鏡の中の自分
私が生活する岐阜県・愛知県も緊急事態宣言が延長された。愛知県の大村知事と岐阜県の古田知事は国に頭を下げて緊急事態宣言の仲間入りをしてもらったのに、解除するのを国に要望していきたい、との発言。全く責任感が感じられないが、ま、あれが彼らの能力の限界なんだろう。
さて助成金の効果もあってか、20時を過ぎると開店している飲食店を探すのは難しく、夜の人出は本当に少なくなった。しかし日中はというとそれほど人出が減ったという実感はない。私も今はそもそも出張などの予定は全くないが今回は自粛をして家に居続けているということもしていない。そのことについて個人個人の意識の薄さを指摘する人もいるが、思うことが2つ。
1. ワイドショーの連中に社会のあり方についてとやかく言われる筋合いはない
2. 政治家に対し国民が言うことを聞かないのは政治家をまったく信用できないから
とまあ、愚痴をこぼしてみたが、ここで松山鏡という落語をご紹介する。
その昔、越後の松山村には鏡がなかった。
この村の正助という男が、親孝行で正直者であるということでお上からほうびをもらうことになった。村役人の前で正助は、両親の墓参りを毎日欠かさずしたのは当たり前のことで、お上から褒められ、ほうびをもらうことでもないからと、金も田地田畑もいらないという。
困った村役人がどんな無理難題でもかまわないから申してみろ、お上の威光で叶えてくれると言うと、それなら18年前に死んだ父親に会わせてくれと言い出した。
これには村役人も弱ったが、名主から父親が正助と瓜二つだったことを聞き、箱に入れた鏡を持って来させた。箱の中を覗いた正助は驚いて喜ぶ。そこには父の顔が。
村役人は「子は親に似たるものをぞ亡き人の恋しきときは鏡をぞ見よ」と歌を添えて、鏡の入った箱を正助に下げ渡した。
正助は鏡を大事に家に持ち帰り、決して人に見せるなと言われたので、納屋の古つづらの中にしまって、毎日そっと行っては鏡を見て、父に朝夕のあいさつをしていた。
これを女房のお光が怪しみ、正助の留守に納屋のつづらを開けてビックリ。そこには不細工な女の顔が。
てっきり正助が引っ張り込んだ女と思い「われ、人の亭主取る面(つら)か!狸のような面しやがって」と泣きながら大騒ぎ。野良仕事から帰った正助の胸倉をつかんで、「さあ、殺せ」の大げんかが始まった。
ちょうど表を通りかかった隣村の尼さんが、二人の間に割って入り事情を聞く。お光は、つづらの中に女子(おなご)を隠していると言い、正助はあれは父つぁまだという。
尼さんは、「わかりました。私が女(あま)っこに会ってようくいい聞かせます」と、納屋に入り鏡を覗いて、そして二人にこう言った。
「ふふふ、お光よ、正さんよ、喧嘩はやめなさい。二人があまり喧嘩するから、中の女は決まりが悪いと、尼さんになったようです」 以上ここまで。
鏡は自分を写すもの。鏡がなければ自分がどんな顔をしているか知らないということが騒動になっている落語である。自分自分を知ることの難しさを感じるということだが、別の視点で考えると、目の前で起きているのは、実は自分を写しているのではないかとも思える。
閑話休題。
東京五輪パラリンピック大会組織委員会の森喜朗(元総理)が日本オリンピック委員会(JOC)で、「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」「女性ってのは競争意識が強い。誰か一人手を上げて言うと、自分も言わなきゃと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」などと発言。
すぐさま日本のみならず世界のメディアで取り上げられ大騒動になっている。
森さんは82歳。年は取ったが(それは私も同じ)まだしっかりしているなあ、それが第一印象。しかし現役時代からリップサービスがすぎるというか、調子に乗ってペラペラと喋るのは変わっていない。余計な一言だった。何の弁解もできないし、全国民から大バッシングを受けるのも仕方ない。
しかし私はこの報道を見た時、この松山鏡の落語を思い出した。
目の前で起きていることは鏡の中の自分自身であるとするなら、俺も調子に乗って自分本位のことを言うことあるよなあ、他人を見下して人をバカにする時もあるよなとふと思った次第またいじめはダメと言いつつ公人や芸能人を集中放火する国民もしかりである。
我が身を振り返り、謙虚でい続けることの難しさを感じ、どんな人にも真摯に対応する難しさを感じた次第。
でも、俺には難しいな。公人でなくて本当によかった。
KUMODE