2024年3月 久々の鹿児島出張にて
3月16日月曜日から東京、茨城県牛久市、鹿児島、大阪、そして名古屋と移動の多い1週間だった。どこへ行っても風が強く寒かった。まだスプリングコートは早いか。
鹿児島出張の目的は川畑瓦工業の若干25歳の川畑光生社長とのミーティング。日頃、ジャックアカデミーや勉強会で意見交換をしているが色々と悩みもあるようでぜひ相談を、ということで今回の訪問になった次第。
鹿児島は司馬遼太郎著作を読み尽くした昭和世代にとって歴史とロマン、そして刹那を感じる街である。未来を憂い今を変えようとした明治維新の巨人たち。多くの偉人がこの地から日本を変えていった。今でも愛されている西郷隆盛、その西郷と並び称される大久保利通。いつかゆっくりと歴史探索をしたいと思いながら、今回は久しぶりの鹿児島出張だった。
さて今回は川畑社長に空港まで迎えに来て頂き、垂水の本社に向かう最中、雄大な桜島を見ることができた。
桜島を見て思い出したことがある。
前職、親父の会社(公共系電気工事会社)で仕事をしていた頃(25歳頃だったか)、橋梁の電気設計の打ち合わせで親父と2人で鹿児島県伊集院町に訪れた。仕事を終え夜は天文館でこじんまりとした居酒屋で食事し酒を注文して焼酎が出てきたのに驚いた。翌日、フライトまで時間があるからと桜島をドライブした。桜島では噴火直後だったせいか火山灰が民家の屋根や道路、自動車の上に降り積もっていた。多くの人が箒で作業をしていた。文字通り「灰色の景色」だった。
それをみて親父と2人で「ここには住めんな」と話をした。
季節は2月。飛行機で名古屋へ戻り、車で飛騨高山へ向かった。当時はまだ高速道路が整備されておらず途中から下道で高山へ向かったのだが、この年は降雪が多くあった年でこの日もしんしんと雪が降っていた。
高山へ入ると積もった雪は1mを越え、駐車場などに置いてある車の半分が見えない状態だった。それを見て
「鹿児島の人はここは住むところじゃないと言うだろうな」と親父と話をした。
あれから30年近くたった。色々なところを訪れているが「住めば都」という言葉を作った人は天才だと思う。
閑話休題。
川畑光生社長には先代がお亡くなりになった後、
「先代が亡くなって1年間は周りの人は気を遣ってくれる。仕事はむしろ順調だと思う。しかし1年過ぎると周りは豹変する。自分の意見、わがまま、先代に言えずに我慢していたことを言うようになる。陰口も多くなり離反する社員もいるが気を強く持って仕事をするように」と伝えていた。
現在、まさにその通りになっており今後の方針や会社の成長をどう描けばいいかという相談だった。
話を聞きデータを見たところ強みは地元でブランドがあることと本業の屋根瓦工事に強いということだった。事業承継をした企業の社員の新陳代謝はある程度は受容すること。仕方がない。残った社員とは誠実に対話を続け事業繁栄とその責務を共有すること。
短期的には本業である屋根工事を磨きエリアを拡大やビルダーの下請けも視野に入れ現在約2.4億円の売上を3億円にすること。そして中長期的な戦略も伝えた。仕事のやり方も田舎ならではの効率的な方法も伝えた。
Jackの理念である「共に集い共に学び共に成長する」を忘れずお互いに精進しようと鹿児島を後にした。
川畑瓦工業へ訪問する際、先代の社長の墓参りもさせて頂いた。亡くなった年齢が53歳で私も今年で同じ年。早いなと思う反面、息子の光生君、長女の瑠花さんはしっかりしているなあと羨ましく思った次第。